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284
総則編ⅩⅦ 答275~答294
294
答294 「富士山可視東端の地」を記念して建てられていました。伊能忠敬はここでの滞在9日目にやっと富士山の方向を観測できたとのことでした。この富士山への方向角の観測で、地図の誤差の修正を行っていたことの説明もありました。
293
答293 朝廷が各地に作らせた地図は「国郡図」で、聖武天皇が命じた地図も「国郡図」でした。また行基図で年号が分かる最も古いのは1305年(嘉元3年)でした。
292
答292 日本より面積の大きい国は、メキシコ、トルコ、チリ、タイの4カ国で、寺田心はニュージーランドで間違えてしまいました。助っ人小学5年生も5名のうちたった一人しか正解しませんでした。
291
答291 「15時でもごはんがたべられるお店ちず」のほか、「西荻おまけ地図」、「動物のつくとこちず」、「数のあるとこちず」、「色のあるとこちず」、「階段のあるとこちず」及び「一文字のとこちず」(画像参照)でした。「動物のつくとこちず」では実際の「きりん堂」が紹介され、「数のあるとこちず」で三のつくところは、三井住友銀行や三菱UFJ銀行が紹介されていました。
290
答290 「古事記伝」を表した本居宣長でした。19歳で実際の地図と同じように精密な空想地図が描けていることに驚きです。
289
答289 ①の「ハザードマップで自宅周辺の災害リスクを把握している」との回答は4割に満たず、②は3人に1人が「見たことがない」「知らない」と答えた、とのことでした。これは、問題のページの新聞のタイトルに”一人一人が当事者意識を”とあるように、漠然とした不安は感じても、「我が身に起こることは考えたくない」「起こるわけがない」という心理が働いていると分析されていました。
288
答288 (A)2倍以上、で、回答者も正解していました。実際は2.6倍もありました。こんなにあるとは思いませんでした。
287
答287 埼玉県蕨市でした。埼玉県南東部の人口7.5万人のベッドタウンです。
286
答286 新聞のタイトルでは「地下道など」とありましたが、記事では未記載が最も多かったのは早期避難区域で198自治体、要配慮者利用施設などは189自治体で、アンダーパス(地下道)は91自治体でした。多くの自治体では「マップが見づらくなる」として表示しなかったとのことでした。
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答285 火野正平が叫んでいたのは”国交省か国土地理院か知らんけど、日本の山 全部平らにしろ! お願い 山で湾を埋めろ!平らにしてしまえ!お願い”でした。自転車旅なので坂道を上るのに大変苦労していたからでした。なおそのあとで、”NHKぎゃら上げろ”とも叫んでいました。
284
答284 西脇市の「日本のへそ公園」でした。説明の中に、もちろん東経135度と北緯35度の交差する街のほか、平成になって新しいGPS 測量によって新しい交差点ができ、その間の距離が437mとの説明もありました。なお平成14年に日本測地系から世界測地系に移行したことによる移動であることの説明はありませんでした。
283
答283 「伊能忠敬のストイックっぷりが分かりました。」と言っていました。伊能忠敬の家の学芸員の説明の中に、酒飲みは測量隊に入れないなどの説明があったことによります。
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答282 教科書最大手の東京書籍が発行した高校向け教科書「新高等地図」に約1,200カ所の訂正が生じた問題で、同社は2026年度から廃刊すると発表したことを受けて出された川柳でした。それにしても1,200カ所とは単純ミスとはいいがたく、しかも文部科学省の検定を通っていたことにも驚きです。新聞記事は8月12日の東京新聞からで、新高等地図は東京書籍のホームページから。
答281 三角点、地形図、等高線、登山地図の4用語でした。特に登山地図は、”ヤマップ”など登山に特化した地図が近年盛んに使われるようになり、GPS機能で現在地が地図上で確認できるなど便利になってきています。
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答280 震災地応急測図原図という名前で、全体で62枚でした。下の地図は国土地理院のホームページからで、1万分の1の東京の千住の地図です。
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答279 東京都江東区にある「日本科学未来館」です。気象情報など変化する地球の姿を映し出しています。日本科学未来館のホームページから
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答278 堀田仁助です。幕府の天文方として航路開拓を命じられ、1799年に北日本の地図を作ったとのことです。1800年に蝦夷地の測量を始めた伊能忠敬にも影響を与えたとのことです。
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答277 地上レーザー測量を実施したとのことでした。ただ今回は発掘で確定した数字でないので、公式の成果は変えないとのことです。なお2012年には、仁徳陵に入れないので大阪府や堺市などにより航空レーザー測量が行われたことも載っていましたが、その成果は載っていませんでした。東京新聞から
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答276 255枚でした。新聞のタイトルでは”畳255枚分”とありますが、1枚が畳約1畳分として表示されていました。また伊能大図を日本列島の形に並べるには縦47m、横45m必要と書かれていました。なお伊能図の中図と小図も並べられており、伊能忠敬の測量も紹介されていたほか、近くで伊能忠敬を題材にした映画「大河への道」も上映されていることも書かれていました。千葉日報オンラインから
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答275 伊能忠敬が49歳の時の年収は1,264両で、現在の価格にすると6,700万円でした。それが幕臣となった60歳代では、給金18両と特別手当30両で合計48両、現在の価格にすると254万4,000円でした。なお当時の下級武士の給金は30両で現在の価格にすると159万円ですので、忠敬はそれ相当の給金はもらっていたこととなります。
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